風が、少し冷たくなっていた。
高原を抜ける風は、どこか鋭さを帯びていて、
それはまるで語の重みを帯びた記憶のようだった。
カラハは、風標の地を離れて一週間ほど歩き続けていた。
手には、潮の貝と、谷で拾った風の羽。
それらは、語り手としての“道のり”そのものを象徴していた。
だが、旅を重ねるごとに、彼の中にひとつの迷いが芽生えていた。
(語は、ほんとうに“受け取って”よいのか)
語を運び、語り、響かせる。
そのたびに、誰かの痛みや記憶が、自分の中に蓄積されていく感覚があった。
(わたしは、“語を持ちすぎて”いるのではないか?)
◇
その夜、カラハは古い山小屋に泊まった。
扉を開けると、すでに焚き火の気配があった。
中には旅の語り手がひとり、黙って座っていた。
彼女は灰色の衣をまとい、瞳は遠くを見るような光を宿していた。
「火を分けた者は、語を分かち合うことができる」
彼女はそう言って、手招きした。
名をミヨリという。
彼女もまた、語の運び手でありながら、語を語ることをやめた者だった。
◇
ミヨリの語は、重かった。
彼女は語を受け取りすぎて、ある日、“自分の語を失った”という。
「誰かの語ばかり拾いすぎると、自分の声がわからなくなる。
そのとき、わたしは語ることをやめた」
彼女の語札には、他者の記憶が綴られていた。
故郷を失った民、癒されなかった痛み、名前すら持たなかった子供の語。
それらをすべて記録した結果、彼女は“語ること”が怖くなった。
「あなたは、まだ自分の語を持っているの?」
ミヨリの問いに、カラハは答えられなかった。
(わたしは……もう、自分の語がどれか、わからない)
◇
夜明け前。
ミヨリはそっと語札を一枚、火にくべた。
炎が語を焼き、光に変える。
「語を焼くことで、わたしはまた、自分の沈黙を取り戻せた。
語は、持ちすぎてはならない。
でも、語を捨てることもまた“語り手の役目”」
カラハは、手元の潮の貝を見つめた。
ユルナの語。
母への祈り。
記憶を語に変えた、あの夜の響き。
それを燃やすことはできなかった。
けれど、彼はもう一つ、風標の地で拾った羽を取り出し、
語の風に一節を記した小さな紙片を添えて火にくべた。
それは、語りきれなかった自分の戸惑いを“手放す”ための行為だった。
(これは……わたしが、語り手であることを選び直すための祈り)
◇
朝、ミヨリは何も言わずに背を向けた。
だが、別れ際に一枚の語札を手渡した。
「これは、わたしが最後に書いた“自分の語”」
そこには、こう記されていた。
「わたしは語を運び、受け取り、沈黙し、そしてまた語り始める」
その言葉は、カラハの胸の奥で響いた。
語とは、ただ“受け取る”だけではない。
語る者が“語り直す”ことで、新たな響きへと変えていくものだ。
◇
その日、風が吹いた。
それはいつもの風ではなかった。
ひとつの声が、風に重なっていた。
「――あなたの語を、待っている者がいる」
カラハは、再び歩き出す。
語を受け取り、背負いながらも、
その中で“自分の語”を問い続ける旅が、今、確かに進んでいた。