風は、語る。
誰かの心に触れたとき、
誰かの言葉に宿ったとき、
それはただの空気ではなくなる。
それは――“響き”となる。
◇
少年は、風の道で生まれた。
名はカラハ。
風渡りの一族の末裔。
語を声ではなく“風”に乗せて届ける、特別な語り手たちの血を引いていた。
彼は幼い頃から、風に耳を澄ませていた。
誰もが聞き流す風のざわめきの中に、
誰かの嘆きや、忘れられた祈りの声を聞き取ることができた。
それは、祝福であり、呪いでもあった。
「おまえは“他者の語”を拾いすぎる」
長老たちはそう言って、彼の語りを制限した。
風渡りの者は、中立でなければならない。
語を伝えるだけで、決して“語る者”になってはならない――それが古き掟だった。
だが、カラハは感じていた。
(この語は……誰かが伝えてほしいと願っている)
拾った語を、そのまま流すことに、
彼は心の痛みを覚えるようになっていた。
◇
ある日、彼は一つの“重い風”を拾った。
それは森の外れ、“深林の民”から吹いてきた風だった。
言葉にはならない。
けれど、その中には確かな“願い”があった。
「わたしの語を、どこかへ……
誰かに、届けて……」
カラハは、初めてそれを“自分の語”として、語りたいと思った。
だがその想いは、風の一族の掟に背くものだった。
「語り手になるな。おまえは“風”であれ」
そう言って、長老たちは彼を追放した。
◇
放浪の旅が始まった。
誰にも属さず、誰の名も持たず、
ただ風と語のかけらを頼りに、カラハは歩いた。
風は、彼に問いかけてくる。
「語るか?」「運ぶか?」「聞くだけか?」
その問いのすべてに、カラハはまだ答えを持っていなかった。
だが、旅の終わりに近づく頃――
彼は一つの祠に辿り着いた。
そこには、一人の少女がいた。
白い羽織に、風の模様を刺繍した布。
彼女もまた、風渡りの一族だった。
名をナユという。
ナユは風を読んで、風に語ることができる“正統の風読み”だった。
そして、こう語った。
「あなたは“拾った語”を語ろうとしている。
でも、語を運ぶだけでなく、
自分の語を持つ者になりたいのね」
カラハはその言葉に、初めて自分の願いを知った。
◇
その夜、彼は小さな笛を吹いた。
それは、声にならなかった語たちが風に変わる瞬間。
ナユは目を閉じ、風の中から“ひとつの祈り”を受け取った。
「ありがとう。ようやく、届いた……」
誰かの語が、風を越え、他者の胸に届いたその瞬間。
カラハは確信した。
――わたしは、“語を語る風”になる。
それは掟から逸れた道。
けれど、彼にとっては“語の誠”を生きる唯一の道だった。
風が、また吹き始めた。
その中に、彼自身の語が混じっていた。
語り手としての第一歩が、
いま、風の狭間に芽吹いた――。