その日、ナギサは夢を見た。
波打ち際に立ち尽くす幼い自分と、彼方から押し寄せる白い波。
波は語りかけるように寄せては返し、何か大切なものをナギサの内側へと残していった。
目覚めたとき、まぶたの裏にはひとつの言葉が刻まれていた。
――「還(かえ)る」
深い記憶の井戸から湧き出したその語は、なぜか懐かしく、そして少しだけ切なかった。
ナギサは潮の村に生まれた。
海辺に築かれたその集落では、昔から「波に宿る記憶を聴く者」だけが一族の語を継ぐとされていた。
しかしナギサは、語を持たぬ子として育った。
耳を澄ませても、風も波もただの音でしかなかった。
周囲の大人たちは優しかったが、どこか距離を感じていた。
それでも彼女は諦めなかった。
夜毎、満ち引く潮に語りかけ、波間に記憶の声を探し続けた。
そして十六の春、ついにその瞬間が訪れる。
海霧の濃い早朝、ひとり浜に立ったナギサの耳に、ふと誰かの囁く声が届いたのだ。
「……ここに、在る……」
振り返っても誰もいない。
だが、心の奥に確かに届いていた。
波間に光る小さな貝殻。
手に取ると、微かに揺れる声が、内へと染み込んでくる。
――あなたの中に、語は眠っている。
その瞬間、ナギサの中で何かが弾けた。
耳の奥に響く古い旋律、指先をくすぐる潮の流れ、胸の奥を満たす懐かしさ。
「……わたしにも、語がある……」
涙が、知らず零れていた。
それは悲しみではなく、ようやく“帰る場所”を見つけた安堵の涙だった。
こうして、ナギサは“潮流の民”として目覚めた。
彼女の語はまだ微かな囁きに過ぎない。
だが、それは確かに波の記憶と共鳴していた。
浜辺に立つ彼女の背後で、潮の風がそっと髪を撫でた。
まるで、長い旅のはじまりを祝福するかのように。
その日から、ナギサは毎晩、貝殻を手に潮騒の中に語を探した。
最初は囁きの断片だけだったが、少しずつ波の奥に確かな声が聴こえるようになった。
ある夜、満月の光が波を照らすなか、彼女はひとつの明瞭な語を聴く。
「ユリノハマ……」
それは、かつて潮流の民が失ったという、記憶の浜の名だった。
その言葉を口にした瞬間、ナギサの周囲の海がわずかに波立ち、足元に円を描くように泡が集まった。
「語は、記憶を越えて導くもの」
誰の声かは分からない。
だがナギサの中で、その言葉が真実として深く根を下ろしていった。
波の記憶とは、過去を知るためのものではない。
語を継ぐ者の心に響き、未来の在り方を照らす灯火なのだ。
ナギサはその夜、記憶の浜“ユリノハマ”を探す旅に出る決意をした。
その地に辿り着いたとき、自らの語が本当に“継がれた”ものとなると信じて。
そして、彼女の足元に寄せる波は、いつしか彼女の語と共に歌いはじめていた。